よろぎの磯にて

西神奈川から伊豆あたりの歴史散歩備忘録

大久保神社に舞い降りた鶴「千歳の鉢」泉鏡花

小田原高校と相洋中・高校の間、坂の途中に大久保神社があり、初代小田原藩主の大久保忠世と七代藩主大久保忠真が祀られています。

忠世は大河ドラマでもおなじみ、忠真は二宮金次郎を藩政に登用した名君です。(大久保氏は一度改易されてるので忠真は復帰後の忠朝から数えて七代目藩主)

 

大久保神社の創建は1893年(明治26)小田原城の天守台に建てられました。最初に祀られたのは大久保忠世だけ。

本丸跡に御用邸建設が決まったため神社は1900年(明治33)に現在地の小峰八幡山に遷座、忠真が合祀されたのは1935年(昭和10)でした。

 

1900年(明治33)小峰に新しく建てられた大久保神社拝殿

 

現在の拝殿

建物は明治時代から変わらず、今年で築126年になります。

 

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小田原城総構を歩こうパンフhttps://odawaracastle.com/global-image/units/upfiles/304-1-20171016150531_b59e44c2bc1c75.pdf

大久保神社のある八幡山には古郭の土塁や堀の遺構が多く見られます。

(相洋中高校右の鳥居が大久保神社)

 

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文久図ではこのあたりの広い地域を小峰畑といい、今の競輪場があるすり鉢状の土地は藩の調練場でした(黄色の丸が大久保神社)

 

明治になると調錬場跡は公園として整備されます。小田原藩が植樹していた梅が多く育っており、梅林として小田原の名所になりました。

この絵葉書は1911年(明治44)「相州小田原小峰公園ノ入口」小峰公園という名称が用いられた最も古い写真です。

公園の入り口に大久保神社の大きな一の鳥居が建てられ、公園内の参道を経て二の鳥居へ続いていました。

 

公園内の茶屋で寛ぐ人々
右奥に大久保神社の二の鳥居が見えます。小峰公園に入らないと大久保神社へは行けなかったのですね。

 

小暮次郎氏によると

「大正時代は梅園と言っても何の施設もなく、花見時散策に訪れる人は少なく至って閑散とした公園であった」

 

どうやら公園はあまり賑わってはおらず、花見の時季にも訪れる人は少ないって・・・ちょっと寂しすぎます。

となると大久保神社の参拝客も少なかったのだろうと窺えます。

 

ここで泉鏡花の「千歳之鉢」です。

幻想文学の先駆者といわれる泉鏡花は小田原や熱海をたびたび訪れその様子を作品に残しています。

明治36年に発表された「千歳之鉢」は大久保神社に実在する鉢を題材にした浪漫的耽美的な小説です。

 

主人公の江島は酒匂の松濤園に一泊し、翌日環翠楼で友人と落ち合う前に小田原見物に出かけ、電車待合所の亭主に勧められて小峰公園を訪れます

公園を歩き、大久保神社で休んでいると16~7歳の娘が茶を運んできます。

やつれた身なりだけどパッチリした目と下膨れの顔の品のよさ、真間の手児奈を思わせる可愛らしい娘だったようです。

 

娘は幼くして母親を亡くし、大久保神社の守(神職)をしている父親と社務所で二人暮らし。現在父親は東京へ出かけてると言います。こんな寂しい場所にたった一人と聞いて江島は驚きます。

「それでも梅の名所だと言うからちっとは遊びに来る人があるのかい、お宮様に参詣の人があるから寂しくはないのかね」

「いいえ、父もそのことで東京へ願いに参りましたのでございます。(中略)お参りの人も少うございますし、藩主様の方も(中略)当社までお手当が行き届きませんものですから、お堂も年々損じますのでございます」

 

参拝客は少なく、東京の大久保家からの手当ては行き届かなく、傷んだお堂には毎晩のように泥棒が入り神具を盗んでいく、なんとも酷い大久保神社の有様。

東京の大久保家に度々願書を出しているが何も沙汰がないので父親が直談判に行ってるのだと。

江島は泥棒が入るなんて怖いだろうとひどく心配しますが

「恐うございますけど、どうもしはいたしません。目をぱちぱちしておりますと、何時でもそういう時は、あの鶴の姿が見えるのでございます。(中略)夢にばかり見えるのではございません。時々壇の下の石の手水鉢へ遊びに来ますよ。」

 

怖い時に目をぱちぱちすると鶴の姿が見える、夢ではなく時々手水鉢に遊びに来ると言うのです。

見ると石段の下に二畳ばかりの鉢があり、傍らに「壽千歳之鉢」と立札が。

その鶴のことを娘は

「親とも姉とも友達とも力になる人とも思いますから、こうして一人でおりますのでございます。他へ参りますともう逢われはすまいと思いますもの。」

 

「それでもご亭主ができたらどうします?」

「あんな優しい、好い者はなかろうと思います。皆酷い人ばかり、神様の屋根を盗むのさえありますもの。」

 

江島は「ここに我(がいるじゃないか)」などとうっかり軟派なことを思うのですが「姐さんはその鶴のようだよ」と言うにとどめ、それでも汚らわしい世辞を言ったと恥じ入ります。

 

娘が茶のお代わりを取りに姿を消すと

途端に鳥の影、はらはらと翼白く、千歳之鉢に鶴がおりた。

そして生類の内に最も気高い、優美な態度で、すらりと歩いた。

 

江島も娘の夢に入ってしまったのか、千歳之鉢に舞い降りる鶴を目撃するのです。読者にも鶴の姿が見えるような、美しくもゾゾッとするラストです。

 

 

大久保神社内の「人寿千年之鉢」大久保忠一書

 

大久保忠一は9代藩主大久保忠礼の嫡男です。

小説の畳二畳は誇張のようです。そのくらいの大きさがないと鶴が遊びに来れないですから。

鶴といえば、昔の本丸には鶴がいましたね。寒い日に脚を片方ずつお腹に格納して温めて、1本の脚でスッと立つ姿を飽きずに観察したものです。

あの鶴が(あの鶴じゃないけど)ここに、来ていたんですね(違うけど)

 

郷土士の歴史探究記事 その60: 郷土士のブログ

郷土士さんのブログではこの鉢について詳しく、

忠一は泉鏡花の「千歳之鉢」を読んで石碑を建てたのではないかと考察されています。

鉢は天守閣時代からあり、遷座とともにここへ運ばれ、二の鳥居近くに屋根付きで手水鉢として使われていました。

鏡花がこの鉢を見て小説の着想を得て「千歳之鉢」とネーミングし、忠一が石碑を建てたということらしいです。

 

もう手水鉢としては使われておらず、この蓋がされて久しいようです。

ボウフラ湧いちゃうから、使ってないなら蓋した方がいいです。それにしてもピンク色の鉢とはかわいい。

 

もし娘が見たのが亀だったら萬年之鉢だったのかも

 

 

 

大久保神社は泉鏡花の他にも近代の文学者に不思議と縁があります。
林原耕三(俳人)と三好達治(詩人)は小田原居住中の一時期、大久保神社の社務所に住んでいます。

この写真の二の鳥居の下にある建物が当時の社務所と思われます。

昔の文学者って、以前書いた北原白秋もそうですが、変わったところに住みますよね。もちろん紹介者がいるのですが、なぜ社務所など勧めるのか、昔の人の考えることは不思議。

 

鳥居の横の小さな屋根は手水舎のようなので、ここに千歳の鉢があったのでしょう。

写真の社務所あたりが現在の道路と想像すると、

鏡花が描いた 上がると一つ、曲がって又一つ、三つにうねって高い、なおその上に社がある

という石段の様子、周囲の景色は変わっても石段の高さとうねりは今と変わらないようで感慨深いです。

 

 

文学者と縁の深い大久保神社ですが、小暮氏や鏡花の言うように明治の頃は参拝者は少なく寂しげでした。それは現在も続いていて、観光客のみならず小田原市民からも認知度は今一つです。

石段のうねり面白いし、あちこちに大久保藤あるし、裏手には小田原高校の樹叢や八幡山古郭迫ってるし、二つの高校に挟まれてるとは思えない静寂感とか、見どころ多いと思うんですけど。

 

大久保藤紋が入った門

神社にこのような門があるのは珍しいと思います。

 

砲弾が奉納されてたり

 

明治時代の魚問屋山田小兵衛が敷石を奉納してたり

 

狛犬にも魚共同とかあるので、魚市場からの寄付が多かったようですね。

 

参考文献

鏡花全集巻七「千歳之鉢」泉鏡花

「一枚の古い写真」小田原市立図書館

「小田原 古きよき頃」小暮次郎

郷土士のブログ

小田原城絵図 文久図

泉鏡花記念館

 

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