よろぎの磯にて

西神奈川から伊豆あたりの歴史散歩備忘録

城ヶ島 楫の三郎山神社がなくなったこと

城ヶ島のつづき、城ヶ島で気になったこと。

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城ヶ島にはかつて

というか昨年まで、島の西端に楫の三郎山という標高14メートルほどの小山があり、山頂に楫の三郎神社という小祠が祀られていました。

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黄色○が楫の三郎山

 

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楫の三郎神社の鳥居

出典 http://blog.livedoor.jp/tcmt_shinichiro/archives/4480217.html

 

楫の三郎とは三崎にある海南神社の祭神、藤原資盈(すけみつ)がこの地に漂着した時、船の舵をとっていた郎党の三郎のこと。

藤原資盈はその労をねぎらい目の前の小島に三郎を祀ったとか。(三郎は漂着後に○んじゃったのかな)

なお、島の東端にある洲乃御前神社も資盈の郎党の一人を祀っています。(この人も○んじゃったのかな)

 

藤原資盈貞観6年(864)大納言伴善男に謀反の罪をでっち上げられて九州から船で逃亡、漂着したのがここ三崎でした。

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伴善男

『応天の門 』 灰原薬 | 新潮社

 

資盈は三崎で暮らしてわずか2年で没するのですが、その間いろいろ活躍して地域の人々に神と祀られました。

でも歴史資料に見当たらない人なので実在したかは微妙です。当然、郎党の三郎たちもそう。

あくまでも伝説と考えるのがよろしいでしょう。

 

楫の三郎山ですが、関東大震災以前は城ヶ島とは海で隔られた小島でした。

人がほとんど近づかなかったそうですが、海があるので当たり前です。

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新編相模國風土記稿には

楫の三郎山にあるのは碑だけで神社はなかったと書かれています。(洲乃御前神社も同じく)

 

 

前置きが長くなりました。

冒頭で「かつて」と書いた通り、楫の三郎山は土地が売却され、開発のために昨年削られてしまい影も形もなくなってしまいました。

 

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Googleストリートビューより

2015年の楫の三郎山


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現在の同じ場所

見事に何にもありません

 

このことに対しネットで

土地を買った外国人により神社ごと山が壊され、鳥居や祠は海に投げ捨てられた!

という噂が散見されますが、それはデマです。

 

みうら市議会だより第160号テキスト版(第3回定例会/令和6年(2024年)11月1日発行)/三浦市

三浦市議会の記録によると、事業者から三浦市に神社を取り壊す際の取り扱いについて相談があり、それに対して市は文化財ではないので近隣の神社に相談するよう答えています。

事業者は近隣の神社に合祀(神社の祭神を別の神社に移すこと)の手続きをしてから祠の処分をしたようです。

神社がなくなってからしばらくしてから、楫の三郎山の工事が開始されていますので、決して山と一緒に神社が壊されて海に捨てられてなどいません。あんな目立つ場所で不法投棄ができるはずもありませんし。

また、事業者が外国人(ネットでは中国人と断定)というのも確証はないそうです。

 

 

神社がなくなると妙に大騒ぎする方がいますが、どんな小さな神社でも、取り壊す時は神職による合祀などの儀式が行われます。(例外はある)

そもそも神道の神様は他の宗教に比べ自由度が高く、引越したり分霊したりは古来からしょっちゅうで、それが神道の特徴でもあります。

 

楫の三郎神社の祭神がどこへ引越したのかは不明ですが、城ヶ島海南神社では 藤原資盈源頼朝、梶三郎命が祀られています。字が違うだけで梶三郎は楫三郎と同じ神なのでそこへ返されたのかもしれません。

 

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城ヶ島海南神社

島の人たちが三崎の海南神社に参拝するのが難儀なので、元亀年中(1570〜1572)に島内に勧請(分霊)したものです。当初の社殿は暴風雨で流されたので明治時代に今の地に移動しました。この話だけでも、神道の神の自由度が窺えるかと。

 

楫の三郎山が削られて景観が変わってしまったことは非常に残念ですが、

文化財でも史跡でもない民間の土地なので行政はどうすることもできず。

でも変な噂が広まる前に三浦市から説明あってもよかったかも。有名な観光地なんだから。

 

楫の三郎は城ヶ島海南神社にいらっしゃるので、恋しい方はそちらに参拝しましょう。

 

 

⭐︎参考文献⭐︎

新編相模國風土記稿

三浦市

相州三浦総鎮守 海南神社

兼務神社について | 三浦 白山神社

 

 

六祖神社 村を救った六人の義民

御殿場市古沢の六祖神社。

江戸時代に年貢の軽減を直訴し処刑された義民六人を祀っています。

 

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「続 御殿場・小山の伝説」(勝間田二郎)に

六祖さんというお話が掲載されています。

 

ざっとあらすじ

寛永12年(1635)小田原藩から弥左衛門という役人が御厨(御殿場、小山)に見回りに来た。弥左衛門は古沢村で農作業をしていた美しい娘を気に入り所望したが父親に断られた。

怒った弥左衛門は古沢村には隠し田があると讒言、年貢はそれまでの2倍以上となり村人の生活は困窮してしまった。

 

寛永15年秋(1638)ついに村の有志、久兵衛、嘉右衛門、庄三郎、平三郎、左近の五人が年貢の軽減を藩越訴(直訴)した。

直訴は受け入れられたが法度により五人は処刑されることになった。その際、嘉右衛門の息子久蔵が身代わりになると申し出たものの捕らえられ、合わせて六人全員が打首になった。彼らの命と引き換えに古沢村の年貢は軽減された。

 

以降、六人処刑された12月28日に子孫が餅をつくと赤く染まってしまうという。

 

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「御殿場、小山の伝説」より

 

娘を差し出せ!とか、餅が赤く染まる!のは民話あるあるなので置いといて、

六人が小田原藩に直訴して処刑されたのは本当です。「駿東郡北郷村誌」には民話抜きの史実の記録が見られます。

隠し田があったのも本当のようです。隠し田の摘発というのはよくあったようで、古沢村近くの大堰村でも隠し田が見つかり名主が処刑されています。

 

六人が処刑されてから140年ほど後、子孫たちによって社が建てられました。

六人の義民たちは六祖大権現となり、六祖さんと親しみを込めて呼ばれ、大切に祀られています。

 

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六祖神社は鎌倉往還沿いの大道塚という小高い場所に建てられました。

今は周辺開発によりわかりにくくなってます。

Googleマップが500mくらい位置を間違えてたので余計わかりにくかった…現在は修正済み)

古沢公民館から西へ100mちょっと、道路左側に見える民家のガレージを過ぎたあたりが入り口。

 


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この小さな可愛い橋が六祖神社入り口


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昭和十二年(1937)

六祖神社三百年祭記念碑


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塚の上なので参道がカーブして高くなっていきます。ちょっとワクワクする景色。

 


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三百五拾年記念碑 昭和62年(1987)

 

安永4年(1775)の神社建立の碑文と六人の戒名が彫られています。

祭主の高村氏は一弊司浅間神社の代々の神職を務められています。


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よく見ると手水鉢や欄干に細かな彫刻がされています。小社なのに凝ったつくり。

 

 

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六祖神社向かいの道祖神

秋ですね

 

「御殿場・小山の伝説」に登場する悪役人弥左衛門ですが、その後村人に竹槍で剌○されたそうです。

もちろん伝説ですから実際に起きた事件かどうかわかりませんし弥左衛門の存在さえ怪しいです。

でも「御殿場・小山の伝説」には大主庵に弥左衛門の供養塔が残されていると写真が載っています。

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「御殿場・小山の伝説」の発刊は昭和61年、もう40年近く昔。この大主庵は今はなく場所もわからず、代わりに教主庵というお堂が六祖神社の近くにありました。

 

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教主庵

石造物がいろいろありまして、


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弥左衛門の供養塔らしきもの。

ハッキリと読めませんがたぶんこれです。

となるとやっぱりここが伝説の本に出てくる大主庵で、弥左衛門は実在していた

ということになるんでしょうかね。

 

この供養塔については帰宅してから気づいたのでちゃんと撮影できておらず、

次に御殿場に行ったら碑文がわかるくらいに撮り直そうと思っとります。

 

 

帰りに中郷館に寄りました。

この地区のコミュニティセンター。とても立派。

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前回は端午の節句の飾りだったけど今回はハロウィン🎃


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ハリーポッターの展示も


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参考文献

駿東郡北郷村誌」

駿河記」

「御殿場・小山の伝説」

「富士山御殿場口登山道MAP」

吉久保日吉神社に導かれる

まだまだ暑かった8月末

小山町吉久保の日吉神社へ。

 

実は吉久保地区の隣の菅沼地区の日吉神社に行こうとしてたのですが、間違えてこちらに来てしまいました。

帰宅してから写真を見直して「あれ?違う?」と気づきました。

いや、気づいてよ帰る前に。

 

まぁこういうのもお導きなのでしょう。

きっと。

 

 

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吉久保日吉神社参道入り口

参道の両側が民家なので、民家の庭先に入って行くような、失礼します的な気分に。

 

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参道脇の小さい用水路


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駿河記(文政3、1820年完成)によるとその頃の名称は日吉神社ではなく山王権現社。

 

日吉神社比叡山の守護神 大山咋神(おおやまくいのかみ)を祭神とし、

日枝神社山王神社山王権現ともいわれます。

山王権現神仏習合の色濃い名称なので、明治以降は改名するケースが多かったようです。

 


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駿河記には山王権現社の他に

神明宮、浅間社、吉久保明神社、山神社、地神社などが記されており、

現在はほとんどが日吉神社に合祀されたようです。

 

どの小祠がどれかは不明ですが。

 

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摩耗してどなたかわからない石仏

あなたが導いてくれたのですね。


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吉久保地区はちょっと道に迷うと 

青々とした田んぼに囲まれてしまう 笑

とても綺麗でした。

暑いけど。

 

吉久保日吉の里(小山町) | ふじのくに美しく品格のある邑づくり(静岡県)

ごてんばこしひかりを生産する美しい水田は、日吉神社から名を取った日吉会の皆さんによって守られているそうです。

 

 

 

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おまけ

スーツケースに入る るな様

 

 

伊豆国式内社めぐり その7 八幡宮来宮神社

伊東市八幡野の八幡宮来宮神社

 

式内社の伊波久良和気命神社と伊波例命神社2社の論社です。

 

伊豆国式内社は数あれど、私はここが一番好きで(全部行ってないけど)

ついでに言うなら近隣で二番目に好きな神社です(一番目は御殿場の二岡さん)

 

ですから少々長くなります。

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R135から伊豆高原の住宅地に入った奥

 

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八幡宮来宮神社という長い名からわかる通り、八幡宮来宮神社が一緒になった神社です。

 

八幡宮の祭神は誉田別命(ほむたわけのみこと)応神天皇のこと。

神護景雲2年(769)一国一社の八幡宮としてこの地に勧請されました。八幡野という地名の由来になってます。

一国一社の八幡宮とはその国の八幡宮の代表のことで、相模国では平塚八幡宮がそうです。

 

来宮神のほうですがこれがちょっと変わってまして、公式から由緒を引用。

八幡宮来宮神社|伊豆の伊東市にある神社

大昔、来宮の神様は、瓶にのって神社付近の金剛津根に漂着したと言われる。この神を海岸近くの洞窟にお祀りしていた。
 来宮の神は大変な酒好きで、沖を通る船を止めてはお酒を献上させたため、船人達は困った。そこで、船の見えない岡の方に遷した。
そこも少し海が見えたので、再度遷したと伝わる。

 

来宮神が流れ着いた金剛津根という場所は不明ですが、祀られた洞窟のそばらしいです。

洞窟は「堂の穴」といい、現在でも残されています。

 

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出典 『堂の穴』伊豆高原(静岡県)の旅行記・ブログ by アルプ・グリュムさん【フォートラベル】

堂の穴

八幡宮来宮神社から直線距離で1キロほどの八幡野港の脇にあります。Googleマップにも載ってます。

 

駐車する場所がなさそうで私は行ったことないのですが、城ヶ崎からのハイキングで寄る方がいたりで意外とネットの情報は多くそれを見て満足しています。

 

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来宮信仰の祭神はたいてい五十猛神。でもここでは洞窟という環境のせいか 伊波久良和氣命(いわくらわけのみこと)といわれています。

神が宿る石の磐座(いわくら)と意味は同じなので、考えてみればわかりやすい名ですね。

 

ここで沖を行く船から通行税、いや、酒を徴収するという迷惑行為(?)をしていた伊波久良和氣命は延暦年中に山にある八幡宮と合祀されます。

 

伊波久良和氣命は怒らなかったのでしょうか。それまで酒奪って飲んで楽しく海岸ライフしてたのに山の中の八幡宮、お堅い誉田別命のとこに連れて来られちゃって。

八幡宮のほうだって、大酒飲みの流れ者がいきなり隣に越してくるって嫌でしょ。私だったら嫌ですよ。嵐とか起こしちゃいますよ。

(一部、神様に対し大変失礼な言い回しがありお詫び申し上げます)

 

延喜式が記されるのは両社の合祀より100年以上後で、合祀済みに関わらず伊波久良和氣命だけが式内社と挙げられています。

八幡宮来宮神社としてではないんです。

 

合祀というと通常はどちらかに吸収合併されるとか(祭神は残る)境内社として置かれるとか、

でもここの場合は名称にあるように個々の同等の2社として存在し続けています。

 

 

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現在の社殿は江戸時代の建築(静岡県指定文化財)本殿に2社が並んで祀られている一殿両扉の珍しいもの。

右に八幡宮、左に来宮

 

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社叢は国の天然記念物に指定されており

特に 九州、沖縄などの暖地に自生する大型の常緑シダ、リュウビンタイの北限自生地として知られています。

 

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鳥居の先には神社には似つかわしくない冠木門。まるで山城に来たようです。

 

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神紋

右が八幡宮の三つ巴、左が来宮の違い矢(矢尻つき)

社殿の並びと同じ。



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冠木門をくぐると一気に八幡野の自然に包まれてホワーッとします。

昔の校舎のような社務所


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社務所の左に社殿に続く石段が見えます。

これがなんとまあ、広いんです。

 

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社叢の下に広がる石段。

どこから登ったらいいのか迷うほど。

 

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石段途中の境内社たち


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この幻想的な光景に魅せられ

毎年のように参拝を続けています。

 

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狛犬に守られるリュウビンタイ


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数年前まではここで人に会うことはなかったのですが、

観光サイトなどで紹介されることが増えたようで、この日はカップルやファミリーなど何組かの参拝客とすれ違いました。

 

 

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駐車場近くに神輿のお堂があります。

ちゃんと2社の神輿があるそうです。

 

 

例祭は9月の第3日曜月曜。私は祭りに関しては疎いので、今年の例祭を紹介している記事を参考に。

出典八幡野・八幡宮来宮神社例大祭 - 牛歩的写真中心網録”

 

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神輿は2基、三つ巴紋の八幡宮と違い矢紋の来宮神。担ぎ手たちの衣装の紋も2つに別れてるのですって。

 

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神輿は海まで降りて


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港近くで万度祓いなる激しい儀式を行う

 

これってつまり

伊波久良和氣命を里帰りさせて楽しんでもらう祭りですよね。山に遷座させてしまったお詫びに。

すごい気を遣ってる。

例祭はこの一つだけなので、八幡宮のための祭りは無いのか、これに含まれているのか。誉田別命も一緒に楽しんでいるのか。

 

何にせよ

お酒は十分に用意しなくちゃなりませんな。

 

 

神馬山神社 ハサミで悪縁を断ち切ろう

猛暑のため外出を控えておりますので、過去に参拝したけど記事にできずに埋もれさせてしまってた神社のことなど。

 
 
神馬山神社
御殿場市で2番目くらいに有名な神社です。
(1番は新橋浅間神社 たぶん)
今年の3月に参拝しました。
 
疫病を断ち邪心を摘み取る、というハサミがお守りで売られており
大小さまざまなハサミが奉納されています。
全国でも珍しいハサミ神社。
 
 


 
 
なるほど
病気治癒のために神社からハサミを借りて枕の下に置き
全快するとひと回り大きいハサミを奉納したんですね。
 

本来の名称は山神社。
他の山神社と区別するために地名の神馬をつけ神馬山神社に。
なお、神馬という地名は源頼朝が巻狩りで本陣を置いた陣馬に由来します。
 
いつから神馬山神社にしたのかは不明ですが、平成初期の地図にもまだ山神社とあるので、地域では神馬山神社の名は認知度低いのかもしれません。
 
 
 


私は初訪問だと思ってたのですが、
鳥居前のこのマップ見て
昔よく来たショートコースのとこだ!と気づきました。
 
もう20年近く前、ゴルフにはまってまして、
時々この西御殿場ゴルフクラブというショートコースに練習に来てたんです。
ゴルフ場の駐車場の隣に神社があったような気もするけど全然忘れてました。
 
で、その西御殿場ゴルフクラブはどうなってるかというと
 
閉業 !
 
クチコミを見ると6年前にはもう閉業してたみたいです。
 

クラブハウスがあったと思われる場所。
今は神社のやたら広い駐車場となってます。
記憶とは激変してしまった光景。
 

スタートホール跡
 
荒れてはいるけどコースはそのまま残ってました。


ショートコースとはいえ、閉業したゴルフコースの活用って難しそうです。
 
 
神馬山神社の南側にはもう一つ、富士御殿場ゴルフ倶楽部という本コースがあって、そちらは今も営業してました。
 
 
さて
ゴルフ場の思い出を胸に神馬山神社に参拝。
 

御神木 (サワラ)
 
このコブを撫でると瘤や病気が治るという
「よろこぶの木」
 
もちろん膝を撫で撫でしました。
 


神光之池
 
 


境内の周りは山城の空堀みたい。
大雨が降ると水が流れたりするのでしょうか。
 






風に揺れるおみくじ
 
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奉納するハサミとは糸切りバサミのことだとここで気づきました。
 
ハサミならなんでもいいのかと思ってた。
 
 
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祭神は大山祇神
扁額に掲げられてるのは珍しい
 
社殿に入って参拝できました。
 

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天狗は山の神なので大山祇神の眷属として祀られていることが多いです。
 
 
だから伊豆の大瀬崎の大瀬神社に天狗がいるのって変だよねー
(しつこく考えている)
 

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神水と華やかな花手水
真夏の今頃はどんな花が供えられてるのかな
 

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砲弾がありました
種類が多いです
 

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神社パンフより
境内で販売されているお守りやおせんべい
 
私はお守りなどは滅多に買わない方なのですが(信心の問題ではなく単に面倒なため)
こなハサミのお守りはよく見たら可愛くて可愛くて、買えばよかったなぁと後悔しました。
 
次に行ったら絶対買おう。悪い病気にならないように。
 
 

伊豆国式内社めぐり その6 引手力男神社

伊豆国式内社めぐり

前回は引手力命神社の論社である大瀬神社でした。

piyotorin.hatenablog.jp

今回はもうひとつの論社、伊東市十足の引手力男神社について。

 

 

十足はとうたりと読みます。難読地名ですね。

 

地名の由来には諸説あり

「わらじが10足あっても足りないほど険しい場所だから」

「江戸からの旅人の10足目のわらじの緒が切れたから」

なんとかわらじ10足にこじつけようとしてますが、十足という漢字は当て字なので十も足も関係ありません。おそらく。

 

「この土地は自給自足により食物が十分に足りている」

乾隆帝みたいですがそこまで豊かな土地ではなさそうです。

 

面白いのは、引手力男神社で毎年秋に奉納される能の「三番叟」

とうとうたらりたらりら〜  という冒頭の呪文のような謡が地名になったという説。

なるほど!と納得したくなりますが、伊豆ではなぜか「三番叟」を奉納する神社が多いので、この地だけ地名となったのもやはり変です。

 

他に、万葉集にも見られる「山のたおり」「山のたるみ」という山の尾根のくぼんだところ、という意味から。

また元々は八幡野村と同村だったけど、八幡野からは遠いので「遠田里」と呼んだ、などなど。

地名の由来がこれだけ出てくるところも珍しいかもしれません。

 

そんな十足は一碧湖と大室山の間、田畑や林の広がる静かな農村地域です。

式内社である引手力男神社は鎮守になります。

 

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民家の生垣に囲まれた参道

 

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小さいけれどしっかりと式内社を主張する扁額


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たいへんわかりづらい由緒書き

 

補足説明しますと

この神社はもともとここから西南に3キロほど離れた山中にあり、その山は手力雄山(手力山)といい、役小角が修行した伝説があります。

創建時期は不明ですが式内社なので平安時代。当時は社殿はなく(小祠はあった)おどり場と呼ばれる場所で山神を祀っていました。

慶安5年(1652)に現在地に遷座。十足の山神、または手力男命(タチカラノミコト)と呼ばれていましたが、明治2年に引手力男神社と改称。

明治25年に火災があり、22枚ほどあった棟札の半数を焼失してしまいました。

 

 

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小さな川にかかる宮橋

 

川のある境内って好きです。(橋を渡るのは身を清めたことになるので手水舎でのお清めが省けるから)


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(でもこの時は手水もちゃんとした と思う)

 

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社殿はコンクリート

 

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撮影したのは秋だったので苔と落ち葉が美しかったです。

 

 

引手力命神社の比定地は前回の大瀬神社が有名ですが、私はこちら十足の引手力男神社こそ正しいのでは?と考えていました。

 

引手力命という神は天岩戸を開いた手力男命と同一だと思いますし、

かつて祭場のあった西南の山はその名も手力雄山です。

 

Wikiより 天岩戸を開く手力男命)

 

でも今回いくつかの史料を調べたら

特選神名牒(延喜式神名帳の注釈書 明治9年)に

十足の引手力男神社は手力雄山の名を取っただけで他に証はない、と書かれていて

大瀬神社を比定地と断定しちゃってます。

 

え?ショックなんですけど。

 

手力男神社と改称されたのは明治以降ですが、それ以前にもタチカラノミコトと呼ばれていたし、江戸時代に遷座する前、山中にあった頃も社はなくともタチカラノミコトという呼び名はあったはずです。

だって手力雄山の神を祀ってるのですから。

この手力雄山の存在だけでもこちらに軍配が上がりそうな気がするのに。

 

 

まぁ、結局どの史料にも確証はないので

確証のないところに妄想で物言いしてもしょうがないですね。

明治の火災で棟札が焼けなければもっと詳しいことがわかったのでしょうか。

 

そういえば

手力雄山の前には猿田山があったそうです。

猿田といえばもちろん猿田彦。だから何?と聞かれても困りますが。

手力雄山は標高300M前後の低山で、猿田山は山というより何かの地形を表していたようで、

現在はどちらの名称も場所も伝わっていません。

 


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神社周辺は広々とした田畑や農家の敷地が広がってます。

天気が良いともっと素敵。

 

伊東市は今いろいろ大変で観光客が減ってるという噂もあるので

お盆休みは宇佐美のお気に入りの中華屋さん行って八幡野や十足をドライブしたいな

なんて思っております。

 

 

東山旧岸邸にて

御殿場市の東山の旧岸邸。

秩父宮記念公園のほど近く。

安倍晋三元総理の祖父である岸信介が晩年を暮らした別邸です。 

 

 

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https://www.kyu-kishitei.jp/

岸邸の敷地は和菓子のとらやが指定管理者となっており

邸宅の手前でとらや工房を営業しています。

とらやは御殿場市に工場があったり、御殿場との繋がりが深いようです。

 


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山門をくぐると美しい小道

 

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とらや工房

行列のできる人気店。

この日も店内は満席で、お菓子も売り切れ続出だったようです。

 

庭では映え写真(というのかな)を撮る女性グループやカップルが多くて賑やか。

 

私たちは岸邸が目的なのでスルーして奥の道へ進みます。

 

 

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岸邸

 

1969年(昭和44)近代数寄屋建築の祖とされる吉田五十六による作品。

 

豪邸ではあるものの、日本家屋らしい素朴さとシンプルな機能美にホッとする建物。

 

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玄関ホール

 

立派なリビングのようですが玄関ホールなんです。

見学者は右手の内玄関から靴を脱いで入ります。

スタッフの案内が丁寧適切で好印象。

 

ここで15分くらいの案内ビデオを観ました。

 

 

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スッキリとした書斎

 

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和室


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居間


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食堂

 

白いカバーがかかってる椅子に自由に座れます


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スタッフが窓を開けてくれました


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こんな庭園を眺めながらご飯食べれるなんて


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厨房

昭和44年でこの設備!

うちなんて土間ですよこの頃 笑

 

オーブンは外国製なのかな?と思ったらなんとsunwave。LIXILの前身ブランドで、国内初のシステムキッチンを開発したメーカーです。

 

なお、メイドさんは3名いたそうです。

 


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昭和の映画に出てきそう。パチパチしてみたい。

 

 

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玄関近くの石像


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敷地内の東屋

 

とらやはあれだけ混雑していたのに

岸邸には数組の見学者しかおらず、おかげで静かにゆっくりと見てまわれました。

 


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東山観音堂

岸邸敷地の隣、駐車場の横にあります

 


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東山湖をつくって新田開発した大阪屋長右衛門とその息子を祀ったのがはじまり。

大阪屋長右衛門は豊臣秀頼に仕えていて、大阪城落城後に商人となったそうです。

 

東山湖って昭和にできた釣り堀かと思ってました。江戸時代初期からあったんですね。

 

岸邸のすぐそばなので、岸さんも参拝されてたかもしれません。

 


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