先日塔ノ沢を歩いて、田中英光の「箱根の山」を思い出したので青空文庫で読み直してみた。
太宰治に影響を受けた無頼派の小説家、昭和7年(1932)のロサンゼルスオリンピックのボート競技に出場という輝かしい経歴の持ち主。

(出典 読売新聞)
銀座のBARで林忠彦氏に太宰治に似たポーズで撮ってもらった写真
オリンピアンだけあって身長は180センチ以上。2メートル近かったという話もある大男である。
「箱根の山」は昭和21年(1946)に発表された中編作品。田中が5歳の息子と箱根旧街道を歩いた体験を綴った私小説である。
箱根旧街道とは江戸時代に整備された東海道の一部。現在は箱根新道や県道732号線が並行している。
田中は前日から5歳の息子一郎と箱根湯本に宿泊しており、二日目は一郎の「お父さん、お山に登ろうねッ」という可愛らしい申し出に応えて旧街道を歩くことにする。
最初は箱根湯本から一時間ほどブラブラ歩いて宿に引き返して昼食をとるつもりだった。
ところが「お山に登りたい」という一郎の無邪気ながらも強い思いに父親も半ばヤケになり、結局ボロボロになりながらも芦ノ湖まで歩くことになる。
時は1943年(昭和18)の年の暮れ、まだ戦時中だ。
田中は幾度か出征して過酷な戦場を経験しているものの、この時勢に呑気に息子と箱根旅行なんて朝ドラのヒロインが激怒しそうだが大丈夫なんだろうか。(「あんぱん」放送中)
箱根旧街道は大正12年にはそのほとんどが県道732号線として整備されたが、江戸時代の石畳や杉並木が部分的に残り国の史跡に指定されている。
箱根湯本から元箱根まで整備された道路と石畳を歩くのが現在の旧街道東坂ハイキングで、田中たちの昭和18年当時も道のりはほぼ同じだったと思う。


田中の服装は二重廻しに下駄履きだった。

(出典 婦人画報)
二重廻しといえば太宰治のこの写真が有名。
田中はこの出立で旧街道を歩いた。二重廻しはまだしも足元が下駄って・・・無理でしょ。
山を舐めてると今なら炎上間違いなしだ。
一郎は子どもらしく帽子にオーバー(昔は冬用上着をこう呼んだ)くらいしか書かれてない。いいとこの坊ちゃんらしく上等なオーバーに半ズボン、ハイソックスに革靴と想像する。

箱根町観光協会公式サイト のマップに加筆
旧街道に作中に出てくる主な名称を書き入れてみた。
概ね今と変わりはないのだけど謎なのが須雲新左衛門邸跡。場所がわからないからマップには書けなかった。
「レディ初花のファーザーである須雲新左衛門の邸跡」という英語の標柱があったという。
初花とは浄瑠璃『箱根霊験躄仇討』に登場する女性。夫勝五郎の仇討ちに献身し、最後は箱根のこの辺りで亡くなっている。
箱根湯本のはつ花そばや須雲川のホテルはつはなの名はこの初花にちなんでいる。
初花の父は九十九新左衛門という仙台の剣術家で初花も仙台生まれなので、箱根に父の家があるのはおかしな話だ。そもそも史実を基にしてるとはいえ初花の話はフィクションなので父の家がここだと言われても困る。

大正時代の須雲新左衛門邸跡の写真。場所は不明。
初花の父、九十九新左衛門はフィクションだけど須雲新左衛門という人は実在したらしいが、この写真以外に情報は見当たらない。
名前からして須雲川村の名主の家系だろう。九十九(つくも)と読みが似てるから初花の父にされてしまったのかもしれない。
『箱根霊験躄仇討』は興味深いお話なので別の機会にまた触れたいと思う。

田中たちは須雲川村で柴を背負った婆様に出会う。
(この写真の女性は若くて申し訳ないのだけど参考までに)
田中はこの辺で食事ができるところはないかと聞くが婆様は
「なんにもなかっぺ」「そんなに小さな子どもを連れて元箱根まで無理だ」
と冷たく言い放つ。
田中は引き返そうかと考えるが、「お山に登りたい」一郎はまだまだ元気で戻るきっかけをなくす。
小さな一郎にとって山とは、切り立った崖や藪だらけの獣道を行くイメージで、歩きやすく整備された旧街道は山道ではなく町や村に見えてしまう。
だから山道を歩きながらずっと「お山に登ろうねッ」を繰り返す。
田中は「今歩いてるここが山なんだ」とだんだんイライラしてきて(読者もイライラする)だったらここを登れ!と路肩の崖を登らせようとしたり、抜け道のような危険な道を一人で行かせたり、一郎が躊躇すると「バカッ!登らんか!」「へばったらひっぱたくぞ」とか、まるで軍隊。教育虐待。時代だとはわかっても読んていて不快になる。
でもバカな父親(田中は自分のことを何度もこう言う)は息子へのじゅうぶんな愛情を持ってるので、フウフウ息をしながら真っ赤な顔で坂を登る幼な子に目頭を熱くしたりする。
何やってるんだか。
そして一郎は父の乱暴な物言いに慣れているようで、何を言われてもわりと平気にしている。父が戻ろうかと声をかけても「お山に登る」意志は固く、本当に5歳なのか?と疑うほど健脚。すごい子どもである。
それでもとうとう甘酒茶屋手前で一郎はさすがに力尽きて田中に背負われる。

大正時代の甘酒茶屋

甘酒茶屋の女性がこれまた冷たくて、
工夫が幾人も店で呑んでるのに田中たちには「今日は休みだよ」と一言。
山道に似つかわしくない怪しい様子だけど泥だらけの父と幼児に茶の一杯くらいくれてもいいのに。田中ももうちょっと粘って欲しかった。
仕方なく田中は一郎を背負いながら芦ノ湖を目指す。時刻は午後三時を回っていた。もう下駄ではどうにも歩けなくて、足袋も脱いで裸足になった。痛そう。
やっとのことで芦ノ湖が見え、一郎は父の背から降りて喜んで駆けて行った。
苦難を乗り越えたことと一郎の逞しさを田中は嬉しく感じながら話は終わる。
子連れの思いつきの山歩きは無謀ではあったけど、
箱根旧街道は遭難するような危険はないし、とりあえず2人とも無事でよかった。
帰りはのんびりとバスで帰ってください。
田中は妻との間に4人の子をもうけているが、他の女性と同棲生活を長く続けており良き父親では全くなかった。 遺作「さようなら」では4人の子どもたちのことを「耐え難き犠牲者」とまで言っている。
それでも彼なりに子どもへの愛情を持っていたことは「箱根の山」で理解できるが、
ほとんど家に帰ってなかった田中が息子の一人と年末に箱根旅行なんてできたのか疑問ではある。
1949年(昭和24)
田中英光は太宰治の墓前で300錠の睡眠薬を飲み手首を切りこの世からさよならしてしまう。
一郎との箱根旅行から6年後、太宰治の死から1年後のことだった。
田中の子どもたちの1人は高名なSF作家の田中光二氏であるが、彼が一郎なのかどうかはわからない。
✳︎参考文献✳︎
「箱根の山」他 田中英光
「オリンポスの黄昏」田中光ニ
「 昨日の道 去年の坂」 大正の写真師がみた小田原・箱根・真鶴・湯河原・熱海
「一枚の古い写真」小田原
史跡 箱根旧街道保存活用計画